■日没/桐野夏生著 2024年9月11日
言論・表現の自由をめぐる、国家権力と作家との闘い。
有名ではないが無名でもない女流小説家マッツ夢井が、性暴力や犯罪を扱う作風から「ブンリン」こと「総務省文化局・文化文芸倫理向上委員会」に召喚され、「更生」を盾に海に囲まれた断崖絶壁の施設で自由を奪われ続ける生活を強いられます。
まるで刑務所のように徹底して管理された厳しく粗末な暮らし。逆らえば減点方式で滞在期間が加算され、反抗すれば時に暴力も受ける。同じく収容されている他の作家たちとは顔を合わせることもほぼできず、接触は厳禁。使えないスマートフォンの充電が心細く減っていくばかりの毎日。
マッツは強さも逞しさもありますが、何から何まで強靭な精神を貫く人ではないし、物書きとしてのぶれない芯はあっても、高尚な思想を持つのでもないし、高潔なわけでもない。そしてそこがいい。気持ちの揺れや葛藤と日々正面から絡み合いつつ、生命力を見せつけてくれます。
所長の偉そうな男も、刑務所でいう刑務官のような役割を担う男たちも、こまごまとした雑用をこなす女たちも、そこで働く人間らがおしなべて中身がすっからかんの単なる俗物であることも分かってきます。その事実はマッツの心を補強してくれます。しかし、恐ろしいのが女性精神科医の登場であり、いとも簡単に薬漬けの寝たきり状態にされることです。全身の筋力は衰え、時折うっすら意識が戻っても思考は浅瀬を漂い、ただ目に入った事象を頭の中でそのまま反芻するだけ。医師は脳科学の権威でもあり、狙いはむしろ死後の作家たちの脳にあるようでした。
最後まで、どうも国家的な意図がどの局面まで働いているのかが個人的にはよく分からなかったのですが、偏った正義を振りかざし自らを省みることもなく攻撃可能対象(この場合は作家)を容赦なく苦しめる連中の異常さ・醜さは存分に伝わりました。配慮ばかりが求められ、隙をついては一斉に糾弾される現代社会にこの構図が当てはまる場合も、少なからずあることでしょう。
表現における「自由」と「制限」。誰がどこで線引きできるのか、どう判断できるのか。解答が容易に見つかる問いには思えません。
■キラキラ共和国/小川糸著 2024年7月31日
以前に読んだ「ツバキ文具店」の続編です。
鎌倉でツバキ文具店を営む傍ら、先代から継いだ代筆屋稼業もこなす鳩子さんと、ユニークな周囲の人々との交流が描かれます。
大好きな女の子QPちゃんと、そのお父さんである男性と新たに3人で家族になり、幸せの道を進む一方、手紙の代筆依頼では癖のあるお客さんたちの気持ちも酌みながら、頭を悩ませ筆を取ります。
庭のお茶の葉を摘んで朝一番の楽しみに淹れたり、よもぎを採ってきてよもぎ餅をこさえたり、地域柄多いげじげじとスマートに闘ったり、日常生活を丁寧にこなす様も素敵です。
独特の優しさとあたたかさに包まれる世界。こんないい人たちだらけなら世の中平和だろうなと少し捻くれたことも思うけれど、決して綺麗事・絵空事ではないと納得させてくれるような語り口でもあるのが魅力です。
■検死捜査日誌/龍一京著 2024年7月31日
図書館の書架でたまたま目に入り、興味を引かれ衝動的に借りました。元兵庫県警の警察官である著者が、ご自身が実際に立ち会った検死にまつわる事件について書かれています。
各事件を次々紹介していく感じなのですが、勝手に期待したより踏み込んだ内容ではない印象でした。同じような意味の文章や言い回しが繰り返し続く点も、少々気になりました。ただ、過酷な現場を経験されてきた仕事人の矜持は伝わりましたし、警察が担って当然だと思っていた「検死」は本来は検察の仕事であることや、検死を行う警察官は「司法警察員」といって、階級でいうと巡査部長以上であること(※はじめの階級である巡査は資格がない)など、初めて知る事実も色々あり、勉強になりました。
■コメンテーター/奥田英朗著 2024年5月7日
3月に読んだ一冊です。こちらも図書館に予約してから半年以上経て順番が回ってきました。
以前にも紹介したことのある、トンデモ精神科医の伊良部一郎先生が活躍するシリーズ短編集です。常人の斜め上を行く言動は、計算尽くしかただの変人ゆえか。とにもかくにも、患者さんたちは結果すっきり。ちょっぴり心が軽くなります。そして相変わらず初対面の人物には心の中で大型の動物にたとえられています。やはり好きです。
■リバー/奥田英朗著 2024年3月4日
2023年2月に図書館に予約を入れ、2024年2月に順番が回ってきました。
十年の歳月を経て再び渡良瀬川河川敷で立て続けに起きた殺人事件の犯人と真相を追う、骨太で読み応え抜群の警察小説です。
若い女性のみを対象にした点や、犯行の手口が酷似していることから、同一犯による連続殺人が疑われます。群馬県と栃木県それぞれの管轄で発生した事件のため、やがて合同捜査の形になり、様々な立場の警察官たちによる地道で堅実な捜査活動の模様が緻密に描かれてゆきます。
過去の事件で娘を失った写真館の父親は、十年に渡り現場で不審人物を張り姿を撮影し続けています。退職した元刑事は、当時逮捕したものの起訴できなかった覚醒剤中毒の容疑者を取り逃がした悔いを未だに重く引きずっています。二人は各々のやり方で、取り戻せない長年の無念を新たな事件に注ぎ込みます。やるせなく、悲痛な覚悟で。
初めて容疑者として浮かぶ期間工や解離性同一性障害を持つ青年、彼らと近しい関係の人々、犯罪心理学者に新米の新聞記者。立ち位置や思惑は違い、時に反目が生じる側面すらあれど、多くの人間が絡み合う中で追う者たちが求めるのはただひとつ、犯人を捕らえること。その執念は結実します。
動機も含め、黙秘を貫く犯人の全貌がきっちり明らかとなる展開ではありません。きっと現実での殺人事件も、逮捕・起訴・有罪の道を時間をかけて辿ったとしても、決して全てが解明されるものではないのだろうと、非常に生々しく、真実味を帯びて感じられました。
■路上のX/桐野夏生著 2024年2月3日
「親ガチャ」という現代風の言い回しも聞かれる昨今。
言葉を借りるなら、まさにその親ガチャに見事に外れたと言える十代の少女たちが、それぞれの家庭事情・親事情により安心して暮らせる居場所すら失くし、都内の街を徘徊しながら危険と隣り合わせで所在なく生きる様が描かれます。
自分の未成年の子供に対しここまで無責任になれる親がいるものなのかと憤りを感じる一方、現実の世界でいくらでもある話なのだと暗澹たる気分に陥ります。
当の少女たちは総じて逞しくもあり、幼くもあり、痛ましくもあり、哀しくもあります。
この年齢でこんな目に遭っていいはずがないとの思いは、やはりどうしても先に立ちます。たとえつつましくとも、衣食住に足り、学校に通うことができ、仕事を持つ親がいるという状況が、当たり前ではない少年少女たちが存在する事実は、忘れてはいけないと思います。
■告白/町田康著 2023年12月11日
町田康さんのお名前は、布袋寅泰さんの2003年の楽曲である「弾丸ロック」の作詞者として目にした覚えがある程度でした。曲自体が好きで、特にギターソロが走る間奏の部分がやけにお気に入りなのですが、歌詞もとても特徴的で強く印象を刻むものでした。
最近ひょんなことから知った小説作品「告白」に興味をひかれ、文庫版で800ページを超える大作を手に取りました。
明治時代に大阪府で起きた「河内十人斬り」を題材に、犯人の一人である城戸熊太郎の幼少期から事件を起こす三十歳代までが描かれます。
博打好き酒好き女好きの極道者として生きる、青年期以降の城戸熊太郎。
物心ついた頃より己の思考と実際に発する言葉が一致しない苦悩を抱える本人の内から、外から、時に天から、独特の文体や表現・ユーモアにも彩られ、熊太郎という人間を徹底的に教えられます。
悪さを働く一方、驚愕するほど純粋無垢であるように思えたり、駄目男丸出しでありながら、心根が優しいふるまいをしたり、間が抜けているのに、意外に計算高い思惑を持ったり、内向的で気弱なのに、強気であろうと試みたり。
誰もが無条件で愛せる人ではないけれど、良くも悪くもどんどん身近に感じずにはいられなくなります。滑稽なまでにじたばたもがくヒト科ヒト属クマタロウという生き物の生態を、鼓動が聞こえる側でつぶさに観察しているかの気分に陥り、すぐそこに息づいている体温を感じられます。
かつて賭場で一度助ける形になった経緯のある苦労人の無頼漢・谷弥五郎と再会したのち、自分を兄貴と慕う彼を舎弟として、最後の最期まで行動を共にすることになります。
弥五郎はワルといえばそうですが、生い立ちを鑑みればほかに世を生き抜く選択肢もなく、強く頼もしい漢気ある青年に成長していました。様々な人々との苦しく悲しく辛いかかわりの中で、弥五郎だけは熊太郎にとって宝石のように特別な存在でした。
でも弥五郎からすれば自分は石ころで、弥五郎がそれに気づいた時こそ自分から離れていくだろうとも考えていました。熊太郎は決して思慮の浅い人物ではなく、むしろ思弁過多であり、それゆえに辛労も絶えず、他者との関係の構築にも常々問題を発生させ、あげく軽んじられ、身を滅ぼすに至るのです。
殺人はもっとも重い罪の行為であり、十人を無慈悲に殺害した事実はどうあっても許されません。いくら一部に完全に自業自得な連中が含まれていたとしても。
熊太郎当人に許される気もありません。もはやすべての行き止まりに辿り着きました。
結末がどうなるかは分かり切っているので、残りページ数が少なくなると切ないような哀しいような、読み切ることでこの物語を、熊太郎の一生を終わらせたくないような、そんな気持ちがさざ波みたいに寄ってきて涙を誘発し、これは凄い作品に巡り合ったのだなと痛感しました。
人を選ぶ内容かとは思いますが、個人的には間違いなく今年読んだ中で一番強烈な痕跡を残す一冊となりました。
* * *
ぼんやりと、昭和13年に「津山三十人殺し」事件を起こした都井睦雄を連想した。
同じく日本刀と猟銃を凶器に、自分を冷遇したとみなした村民三十人を一晩で殺害するに及んだ、身勝手でおぞましい凶行。陰惨さの奥に哀れみも潜む。
都井睦雄は、犯行後に自らの心臓を撃ち抜き自決した。
最後に自分自身を殺したが、もちろん三十人の中には含まれていない。
■ゴミ清掃員の日常/作:滝沢秀一 画:滝沢友紀 2023年10月28日
コンビ芸人「マシンガンズ」の滝沢秀一氏作による、奥様作画の漫画形式作品。
実際に芸人活動のかたわらで始めた、ゴミ清掃員としての日々。役立つゴミ知識を、楽しくおもしろく、時にじんわりする出来事も交えて披露してくれています。
ゴミの分別や処分の仕方は、地域や自治体によって本当にびっくりするくらい違ってくるので、ふと「あれ?これは何ゴミになるの?」と調べることは個人的に結構あります。
意外なものが燃えるゴミで出せてしまえる時の地味な嬉しさは一体なんなのでしょう。
■金閣寺/三島由紀夫著 2023年9月12日
かねてより三島作品を読んだことがないなと思っており、ちょうど図書館の書架に戻っていた「金閣寺」を手に取りました。
1950年に実際に起きた、金閣寺放火事件を下敷きにした物語です。
京都は成生岬の小さな寺に生まれた溝口少年は、幼少の頃から僧侶である父親に金閣寺(正式名称:鹿苑寺)の美しさを繰り返し聞かされて成長します。肥大するばかりの、自己の脳内に燦然と輝く比類なき美を持つ金閣の存在。あまりに想像の金閣が完璧すぎて、初めてその建造物を直に見た時にはむしろ何の感動も湧かないほどでした。現実の美を幻想の美が上回っていたのです。
青年時代を迎え、父親の知人が住職をつとめる伝手で金閣へ修行に出、長く憧憬の対象だった絶対的な美と日々共にある生活を送ることになります。
そこから最終的に「金閣を焼かねばならぬ」と天啓を受けるまでの、様々な人とのかかわりや出来事を通した一人称の彼の心象風景も追う形で事件まで進みます。
凡人の自分としては、「天才がいわゆる“中二病”を深く描くとこうなるのか」と少々ふざけた見解がよぎったのも事実です。ただ、戦争を跨いだ時代背景で現代とは社会情勢も含め何もかもが違い、今と同じ物差しを用いるのは、まったく正しくありません。
溝口青年は、若さに似合う過剰な自意識を身内に渦巻かせながら生きています。自己愛、自尊、自虐など、およそ自分自身にかかわるあらゆる認識が非常に濃厚なのです。根底にあるのは、ひたすら「美」というものへの拘泥、執着。美は時として人を狂わせますが、もはや問題は美そのものだけでなく、美のありようでもあり、捉え方でもあり、解答も救いもない観念は彼を縛り深い苦悩を与えます。
中でも、戦争終結を「金閣と自分を完全に切り離した事柄」としか見做さないのは、あまりに斬新な発想に映りました。戦中京都も爆撃を受ければ、金閣も自分も同じように燃えて灰になる存在=同等の存在になると考えていたのに、終戦によりそれがふいになり、圧倒的な美しさを誇る金閣と、容姿が醜く吃音を持つ己とが、再び立場を異にする事実が永遠に決定したからです。もはや痛々しく、悲しくさえなってきます。
あなたも私も誰も彼も、その生存に意味も意義も一切ないと、溝口青年に言いたい。人は産まれて生きて、時間が経てば無に帰すだけ。極端な話、その時何歳だろうと死の当事者にとっては変わりない。けれど、その事実を基にした心持ちだけを拠り所に生きるには、あまりに人生は長い。だからか生身の人間というものはじたばたする。遅かれ早かれきれいさっぱり消えることが決定していて、そこまでの年数も、何をしたかも何を思ったかも、全てが無為なのに、どうせ無意味なら、生の時間は
幸せで楽しい方がいいと考える。少しでも永らえるよう努力する。虚無に打ち勝とうとする。観念的な絶望感は、望む者にしか訪れない。・・・などと私的にはぼんやり思ったりもします。
大学で知り合った友人の柏木青年は、「内翻足(内反足)」という足の障害を持っており、歩き方にはかなりの特徴があります。重度の吃音である内向的な溝口青年は、そこに話しかける理由を見出します。しかし彼は溝口青年とは正反対で、「女はこの足に惚れる」と嘯き、実際足を武器にすらし、目をつけた女性たちを確実に落としてしまう行動力を持つような、相容れない男でした。
不自由な足を含めて自分。むしろそこをないがしろにされたくない思い。彼とて、前向きな明るい人柄とは到底言えず、それどころか捻くれた変わり者です。個人的に、作中で一番難解に感じられたのは柏木青年の語る内容でした。彼は、刹那の美を愛する男。例えば、美しい旋律を響かせるも立ちどころに儚く消えてしまう、まさに人生に似た音楽など。金閣のような不変・不滅の性質を備えた美は眼中にないのです。
その彼は言います。世を変えるのは「認識」であると。溝口青年は反論します。世を変えるのは「行為」なのだと。
美に強く憧れ、その美が自分や世の中を無力化すると憎み、美の象徴である金閣を燃やして破壊する。とてつもなく単純化すれば、このような理論なのでしょうか。溝口青年にとっては、自らに憑りつき続けた美からの解放でもあったのかも知れません。
なお、現実の事件では、逮捕された犯人は犯行動機を「美への嫉妬」と供述したようです。
三島由紀夫という人物が、いかに情緒が深いのかがよく分かりました。
唖然とするほど強い感受性を持ち、それを言葉に置き換える能力に長け、どんなに現実的な内容を語るにもいちいち一文一文が美しく舞い、負担にならない詩的な流麗さをまとっている。
もし若い十代の頃に読んでも、登場人物たちの心情や思考を酌もうと努めることは到底無理だったと思われます。(ぎりぎり)40代の今も、文章を何度も反芻しかみ砕く必要が随所であり、完全な理解などにはとても及んでいないことでしょう。
頁をめくるのに結構な時間を費やした久々の一冊となりました。
次の三島作品は・・・しばらくお休みでいいかな、と今は思っています。
■生誕祭/馳星周著 2023年6月27日
「不夜城」をはじめとするノワール小説でも知られる著者の2003年発表作。
ちなみに、お名前は香港の映画俳優・監督である周星馳(チャウ・シンチー)の漢字を逆さにしたのが由来のペンネームです。
不夜城シリーズなどは昔一通り好んで読みましたが、今回かなり久しぶりに手に取った作家さんの作品となりました。
舞台はバブルに踊る東京。不動産を転がして大金を得る時代。金と酒と薬と男と女の欲まみれの狂乱。騙しあいに裏切りあい。共感を抱くような人物は特に登場しませんので、
疾走感も心地よくエンターテイメント小説として面白くどんどん読み進みました。すっと自然に負担なく入ってくる文体はやはり情景が浮かびやすく魅力的です。
十年後を描いた「復活祭」も続けて読了。土地神話崩壊の次は、IT企業が乱立する世での全てを賭けた買収劇へ。
■正欲/朝井リョウ著 2023年3月26日
はじめての作家さんです。昨年2022年2月に図書館に申し込み、この3月に順番が回ってきました。
予約待ちに一年以上かかったのもはじめての経験です。
今の時代にふさわしい、「多様性」を主題に据えた物語。
登校拒否児童やその両親、男性に嫌悪感を抱く女子大学生、更には世でいうマイノリティにすら入れてもらえない特殊性癖に苦悩する若き男女たち。「普通」とは一体何なのか。
「変形する水にしか欲がわかない」とは少々理解が及ばない範疇ではありましたが、登場人物の「なぜ当たり前に自分がいつも理解する側・受け入れる側のつもりでいるのか」という趣旨の叫びは心に響くものがありました。
印象的な表紙は、水鳥であるマガモの雄に見受けられます。
彼らも着水は足からしますから、これは墜落の場面なのでしょうか。それとも覚悟を決めた飛び込みなのでしょうか。
いずれにしても、下が水面だとすれば、まもなく派手な水しぶきがあがることに間違いありません。
■罪の轍/奥田英朗著 2023年3月5日
オリンピックを翌年に控えた昭和38年の東京を舞台に繰り広げられる警察小説です。
実際に起きた「吉展ちゃん誘拐殺人事件」を下敷きにした事件が絡み、北海道は礼文島から逃げてきた空き巣常習犯の青年への地道な捜査が丁寧に描かれます。松本清張作品を思い出させる、現実味溢れる刑事たちの言動には臨場感があり、自分も地取り・鑑取りに同行し、捜査会議に出席しているような気分にもなりました。
本庁と所轄の関わり、警察幹部と現場で動く捜査員たち、それぞれの立場や思いも実感として伝わってきました。まだ一般家庭に黒電話やテレビが充分に普及していない時代の話です。刑事たちは無線機も持てず、誘拐犯との通話の逆探知すら叶わず、それでも「電話」という利器が登場したからこそ生まれた新たな犯罪である営利誘拐に辛抱強く立ち向かいます。
大きな謎が存在するでもなく、意外性が待つでもないのに、静かに先が気になり続ける、哀しい人間と罪との物語です。
■ララピポ/奥田英朗著 2023年2月11日
以前に紹介したことのある 「最悪」「無理」「邪魔」などの犯罪小説を書いた奥田英朗氏の著作です。
上記の作品群とは少し毛色が異なる感じもありますが、今回は性によって翻弄され運命を狂わす人々の人生の一部を垣間見ることができます。
愚かしくも哀しい、渋谷界隈に息づく様々な男女。美しい官能ではなく、そこにあるのは常に超現実的であさましく生々しい人間のサガです。
終盤で聞きなれない題名である「ララピポ」の言葉の意味が明かされた時には、思わず膝を打ちたくなりました。
■悲しみのイレーヌ
■その女アレックス
■傷だらけのカミーユ/ピエール・ルメートル著(橘明美訳) 2023年2月11日
これまで縁のなかったフランスの作家さんによる犯罪小説で、パリ警視庁のカミーユ・べルーヴェン警部が登場する三部作となっています。
ベルーヴェン警部は145cmと小柄な身体的特徴を持ち、それは愛煙家であった著名な画家の亡き母による影響だと思っている人物です。
気難しくて愛想よくもないのに、なぜだかどんどん愛着が増す不思議な魅力をたたえる有能な仕事人なのです。
物語は総じて読み応えが抜群で、上質なミステリにほかなりません。明るさは微塵もなく、事件はただ恐ろしく凄惨を極め、絶望すら渦巻く異様さを常に肌で感じさせ続けます。十代の精神も未熟な昔、フランス映画を観ている時に襲われた独特の不安で落ち着かない気持ちを思い出しました。
言語としてのニュアンスを重要視するあまり元来翻訳ものを敬遠しがちな自分は、日本語訳の文章の素晴らしさにも終始感嘆するばかりでした。
テスカトリポカ/佐藤究著 2022年12月17日
今年の2月に図書館に予約を入れ、11月に順番が回ってきました。
はじめて読む作家さんです。ハードカバー500ページ強。第134回山本周五郎賞、第165回直木賞受賞作とのこと。
日々凄惨な抗争が繰り広げられる、メキシコ麻薬カルテルの世界を牛耳るカサソラ兄弟。ある時敵対する組織に襲撃され、三男にあたるバルミロを除き一家全滅する。単身インドネシアに逃れたバルミロは復讐を誓い、資金調達のため動く中で一人の日本人臓器ブローカーに出会い、その男が元心臓血管外科医であることを知る。やがて二人は川崎を本拠地とし、不法な心臓移植ビジネスに手を染めてゆく。
簡潔すぎるあらすじです。重要な人物はほかにも大勢登場します。特に、日本人の父とメキシコ人の母を持つ長身怪力の少年コシモは、バルミロの運命をも左右するキーパーソンとなります。
バルミロは、古代メキシコ文明の一つ「アステカ文明」を盲信する祖母に育てられ、自身もその影響を強く受けた思考と行動を備えています。アステカ文明には神々に生贄(生きた人間)の心臓を捧げる儀式があり、闇の心臓移植にある種の意味をもたらします。
テスカトリポカはアステカの神のひとり。恐怖、暴力、悪夢で構築されたバルミロの人生は、常にこの恐るべき神と共に存在したと言えるでしょう。終始興味を引かれ続け、これだから読書はやめられないといった感想を持つに至った物語でした。
個人的には映画を観るのもとても好きなのですが、映像からでは得られない文章の威力というものを改めて独特に感じたりもしました。
■満願/米澤穂信著 2022年11月29日
「夜警」「死人宿」「柘榴」「万灯」「関守」「満願」の六篇からなる、珠玉の短編集。
はじめての作家さんでしたが、過去読んできたあらゆる短編集の中にあっても、得られた満足感は相当なものでした。とても濃密です。
特に強い印象を残したのが「万灯」。
手練れの中年商社マンが、天然ガス資源を得る交渉のためにバングラデシュへ。しかし、現地のマタボール(村長のような立場の人物)の一人である教養の高い男性から、開発に対し全面的な拒絶を受ける。そこに初対面となる競合企業の社員も現れ、事態は深刻化を極めてゆく。
家族も友人も持たず、故郷日本を出て時に危険と隣り合わせの諸外国を飛び回り続け、仕事だけが矜持でありすがりつく全てである孤独な男の、恐ろしい決断への自然な流れと実行力に驚き、おののき、そして果てには哀れみすら誘うような余韻がひたすらに心を漂う見事な一篇でした。
■罪の声/塩田武士著 2022年10月15日
【グリコ・森永事件】※1984-1985年 未解決事件
関西で起きた食品会社を標的とした一連の企業脅迫事件。誘拐、放火、殺人未遂(毒物混入)などを含む。
* * *
「三億円事件」をはじめ、未解決の重大事件は小説に限らず映画やドラマなど創作物のモデルになることがままあると思います。「罪の声」は、「グリコ・森永事件」を下敷きに展開される作品です。
各名称こそ変えてありますが、事件の細部に至るまでの全ての内容は、ほぼ史実と同様に作られているようです。
とても詳細です。新聞記者が特集記事のため昔の事件を追う形でもあるので、終始上質なノンフィクション小説を読んでいる感覚でした。
初めての著者の経歴が気になり少し調べると、新聞社に勤めた経験がおありとのことで、非常に納得しました。
※以下、若干ネタバレのようなものを含む文章です。
当時、自分は10歳頃でした。連日テレビや新聞で報道されていたのを覚えています。
犯人が警察やマスコミに対し送り付けた数々の挑発の文言はひらがなだけの独特なもので、強く印象に残っています。
容疑者の一人として公開された「キツネ目の男」の似顔絵は、数ある指名手配犯の顏の中でも突出して多くの人々の目に焼ついているのではないでしょうか。
自宅から誘拐された江崎グリコの社長が、自力で監禁場所から逃げ出し無事保護された一報には、子供ながらに不思議な感触を得たことをはっきり思い出せます。
幾度も警察が犯人と接触する機会を作る執念を見せながら逮捕に至らなかった未解決事件なだけに、色々な憶測も飛び、犯人グループの目的や思惑についても諸説語られています。その少し前にオランダで起きた、ビールで名高い「ハイネケン」の会長が誘拐された一件を参考にしたとも推測されていますが、単純な営利目的の誘拐や脅迫かと思いきや、実際には身代金の受け取りは一度もなされませんでした。尻尾をつかませる材料は豊富のようでいて、
ついには犯人は不明のまま、結局なんだったのか分からずじまい。だからこそ歳月の流れにのまれないで人の興味を引き続ける事件なのでしょう。
犯行指示には、テープに録音した「子供の声」が使われることがありました。題名が指し示すのは、その声のことです。
よもや犯罪とは知らず、大人に言われるままにしゃべり、それが昭和犯罪史に残る未解決事件で使用された。自分が加担していた過去。偶然発見した古いカセットテープから数十年前の朧げな出来事がよみがえってゆきます。
声を吹き込んだ子は数人おり、その内の姉弟だった姉の非業な運命、一人残された弟が生きた壮絶な半生の告白には、胸を押しつぶされます。
犯行グループの派手な立ち回りが目立つ中、片隅で確実に子供を巻き込んだ卑劣な犯罪であることを、決して忘れてはいけない。その子供たちが辿ったかも知れない人生が、露になる物語です。
■砂に埋もれる犬/桐野夏生著 2022年9月30日
今年の2月に図書館に予約を入れ、この9月に順番が回ってきました。季節がいくつか変わりました。昨年刊行されたばかりということもあり、数百人が読書を終えるのを待った形になります。
※以下、若干ネタバレのようなものを含む文章です。
育児放棄や児童虐待の被害を受けながら育つ、小森優真少年。家族は母と弟が一人。
父親違いの幼い弟・篤人は、きかん気が強く扱いづらい。かわいいと思う瞬間もたまにはあるが、空腹を超えた飢えと闘う日々においては生存競争の敵でもある。
母親の亜紀は、男をとっかえひっかえしては相手の住まいに子供ごと転がり込む。自堕落で、絶対に働きたくないから、一番楽な方法を選ぶのだ。主にゲームセンターで遊び歩く毎日。帰らない日も多い。
本来なら6年生になる優真は、小学校に通わなくなって久しい。同級生にいじめられるのが嫌だし、何より母親が転居に伴う手続きの一切をしないので、いわゆる「居所不明児童」の身となっている。
母親が同居の男と外出し戻らない日々が続くと、暴言や暴力を警戒しなくて済むし気は楽だ。しかし、食べる物がない恐怖と飢餓に否応なく襲われる。
料金滞納で電気やガスや水道が止められてしまうことだってあるから、公園の水道は大きな味方だ。飲むだけでなく、体を洗うこともできる。どのみち母親の荷物で埋められた浴槽が使われた試しなどほぼない。
ある時、意を決して、近所のコンビニエンスストアで店長に願い出る。廃棄弁当をもらえないかと。
店長は目立たない感じのごくありふれた中年男性だが、まじめで親切な人柄だった。店長の妻も、自宅で20年寝たきりの娘をつきっきりで介護している愛情深い女性だ。
弟を連れてとうとう行方をくらました母親と引き換えるみたいに、少しずつ外部の人間につながってゆく。店長と顔なじみの警官、児童相談所の職員、保護施設の所長や職員に保護児童たち、進学した中学校での同級生や教師。
のちには、突然娘を亡くし悲しみにくれる店長夫妻が里親に名乗り出てくれ、新たな人生が拓ける。
一見、「普通」の「まとも」な生活が始まった。
優真は母親の亜紀などどうでもよかった。いい加減でだらしないだけの女。むしろこっちから捨ててやった。うざい弟の世話も、これで金輪際しなくていい。
毎日食べ物に困らなくなった。ゴミ屋敷の押し入れではない、ちゃんとした部屋で眠れるようになった。
でも、ろくに規律正しい生活を送った経験のない優真には、「普通の生活」は窮屈にさえ思える。
以前のように好きな時に起きて、好きな時にごろ寝したい。もっと適当に生きたら楽じゃないか。
何かが変だ。今までにない様々なものを与えられ、得て、満たされているはずなのに、正体不明の黒い渇望が湧き上がる。苦しく、もがく思いで、「普通の子」を演じながら日常をやり過ごす。
これは、
「育児放棄・児童虐待され続けた少年が、周囲の人間や専門的な職に就く人々から救いの手を伸べられ、晴れて毒親から逃れ、その後里親のもとで幸せに暮らしました」
とはならない話です。
そう簡単ではないということです。
意識的・無意識的にかかわらず、常に優真少年本人がその原因を作っている点は本当に切ないし、心が痛みます。
けれど同時に、仮に保護して共に生活をする大人の立場になったとして、いつまであたたかい眼差しで見守れるものだろうかとも考えます。歯磨きしない。入浴も億劫がる。
食事に嫌いな物が出れば作った人の前で平気でよける。他人の気持ちを考える発想がない。深夜にこっそり家を抜け出して徘徊する。
裕福な一軒家の庭に入り込み風呂場を覗く・・・もはや問題行動に収まらない犯罪の範疇に踏み込んだ行動は、同級生の女の子への妄想も絡んで徐々に加速してゆきます。
大人たちは、優真少年の顔を見れば合言葉のように「友達はできた?」と尋ねます。発する側からすれば、おそらくは挨拶と同等の何気ない一言。紙に染み込むインクのごとく、彼の中にその毒が侵入して、じわじわと黒く広がっていく様が見えるようです。
誰も、優真少年と同じように本気で飢えたことなどない。
いつでも母親と男の顔色を窺って行動する処世術など知らない。
父親が違う傍若無人な弟との面倒な関係など知らない。
学校で「くさい」といじめられる悲しさなど知らない。
友達の作り方を知らない子供を知らない。
この子はどんな大人になるのだろう。
目を細めて想像するのではなく、眉をひそめて彼を眺めそう考える大人が大半に違いありません。
父親に似てきたと、母親の亜紀にも事あるごとに言われてきました。もちろん悪い意味です。その亜紀も、自身に似たり寄ったりの実母を持ち、老母が末期癌を患った今でさえ関心は薄く、少しは遺産をもらえるのかくらいの興味しかありません。
血縁、遺伝、そして日々目にしてきた親の言動の影響、染み着いた習慣や思考。そういったものから逃れることは無理なのでしょうか。
親は子を甘やかすことも、厳しくしつけや教育を施すことも、ただ大事にすることも、きっとすべてが必要で、バランスが大切で、そう理屈を並べるだけならあまりに容易くて。
感情を備える生身の人間対人間は、どうしてこうも厄介でもつれてしまうのか。
「砂に埋もれる犬」とは、スペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤによる絵画作品です。
大きく空間を描いた下方に、埋まった砂からちょこんと顔だけ出した横向きの犬が上を見上げています。
暮らしは望みどおり劇的に変わったのに、自分は変われない。
砂に埋もれたまま、自分自身でいることしかできない。
それどころか、どんどんおかしな方向へ沈んでいる気がする。
そんな優真少年の暗い焦燥と混乱が伝わってきては心を揺さぶります。
ついには刃物を買い求め、里親の店長に向けるに至ります。
それでも、最後の一文は、確かに優真少年の精神や事態が好転してゆく兆しの尻尾としてとらえました。
必ずや、そうであってほしい。
■異端の鳥/イエールジ・コジンスキー著(青木日出夫訳) 2022年9月1日
小説というより、文学作品と呼ぶにふさわしい文章と物語。映画化でも話題になりました。
奥付を見れば、初版発行は昭和47年。市内の数ある図書館でも取り扱いはただ一館一冊のみ。もはやカバーも失われ、本の状態は今まで借りた中で一番年季が入っていると思わせるものでした。どれだけの人が読んだのだろう。
第二次世界大戦下の東欧を、親元を離れ田舎に疎開した一人の少年が生き抜きます。
時代背景や設定に、すぐさま「悪童日記」(アゴタ・クリフトフ著) を思い浮かべました。
が、内容はそれ以上に過酷で凄まじく、少年による休息のない生き地獄巡りと言い切って差し支えありません。悪意と暴力と偏見で構築された世と人間の絡み合い。
残酷博覧会の傍観者でもあり、肉体的精神的に徹底して被害を受ける当事者でもある、黒い目と髪をした少年は、どこへ流れ着いても悪魔扱い。否応なしに様々な人から人へと渡ってゆく途中、出会った鳥飼いの男が、一羽の鳥にペンキで派手に着色をし、空へと帰します。すると即座に仲間の鳥たちが大勢群れで迎えにきたはいいものの、自分らと色が違うと分かるや否や一斉に攻撃を仕掛け、排除しようとします。「異端の鳥」は力尽き、地上に落下して絶命します。
少年はまさにこの鳥に自身を重ねます。鳥飼いの男はただ、日常的な己の鬱憤を晴らすためだけにそんな仕打ちをしたのです。
戦争という圧倒的な絶望の状況下、人々は抑圧され狂います。
一方、「これは特に戦争の影響は関係ないのでは」と思う出来事や人間模様も少なからず見受けられました。
すべてが戦争のせいなのか。時代のせいなのか。どうも総合的に「人間のせい」という答えが最もしっくりくる気がします。
少年の魂も、単純ではありません。非常に濃く、しばらくは心に残像が漂う、読み応えある本でした。
原題は、英語だと「The Painted Bird」(色を塗られた鳥)。
これを「異端の鳥」と訳すのは、日本語の妙であると、つくづく感嘆しました。
■検事の本懐/柚月裕子著 2022年7月1日
30代前半と思しき検事、佐方貞人の己の仕事に対する姿勢がきっちりと描かれる5つの短編集。
愛想がいいわけでも、口が達者なわけでもない。ただひたすらに真摯に人間と向き合う若き検事。
髪はぼさぼさ、シャツもよれよれ、風貌は冴えない。
けれど、芯に熱いものを絶やさない。
知識と思慮が深い人物が取るはっきりした態度や、発する迷いない言葉は、常にとても頼もしく映ります。
容疑者、被害者、警察官、裁判官、弁護士、証人、検察官、事務官、そしてその家族、友人、上司、同僚、部下・・・挙げていけばきりのないほど、ひとつの「事件」には取り巻く様々な人々が存在します。
見極めるのも、判断するのも、簡単ではない。それぞれの思惑も事情もある。綺麗事だけで世の中は回らない。そこから真実を掬い取るために、立場を異にする者同士が必要不可欠なのだと改めて感じるところもありました。
■無理/奥田英朗著 2022年3月20日
「最悪」「邪魔」に続く、題名二文字の群像劇です。
3つの町が合併して誕生した地方都市、ゆめの市。
いつにも増して寒さ厳しく日照時間もない凍てつく冬、5人の男女が閉塞感に満ちた日々の中でもがきます。
妻に浮気され離婚した生活保護ケースワーカーの男、暴走族あがりの詐欺セールスの男、新興宗教に浸かるスーパーマーケット保安員の女、
公私共に問題山積の市議会議員の男、東京暮らしを夢見る女子高生。
それぞれが普段の生活を通じて極限に近い心理に追いやられる様が説得力を伴い丁寧に描かれます。
ただ生きるのはなぜこうも大変なのか。
彼らが行く道筋は、誰もが辿る可能性を持っていると思わされます。
■邪魔/奥田英朗著 2022年3月4日
題名だけの紹介ですが、最近立て続けに読んだ本です。
・我が家のヒミツ/奥田英朗著
・我が家の問題/奥田英朗著
・家日和/奥田英朗著
・町長選挙/奥田英朗著
見事に同じ著者の小説が並びました。ほかの作品も次々読んでみたいと思う作家に久しぶりに出会った感触があり、嬉しい限りです。
2022年1月に紹介した伊良部医師シリーズの「町長選挙」も楽しかったですし、短編集「家シリーズ」も色々な家族の様々な問題に触れることができて興味をそそられました。
多少の癖や問題はあっても、いずれも嫌味がない登場人物ばかりで、日常のささやかな「事件」を通じて導かれる人間模様に、気持ちが柔らかくほぐれ胸がじんわりとあたたまります。
読後は少なからず心が広くなる感覚を味わえること必至です(※期間限定)。書き手はさぞユーモアと包容力に溢れる人物だろうな、とも想像してしまいます。
そして、「邪魔」はかなり好みの物語でした。以前に紹介した「最悪」の系譜と言える群像劇です。
7年前に妻を交通事故で亡くした不眠症の刑事、夫と子供2人と一軒家に暮らす平凡な主婦、警察とも極道とも喜ばしくないかかわりを持ってしまった不良高校生らが、ある放火事件をきっかけに運命をじわじわと狂わせてゆく様が描かれます。特に、スーパーマーケットで日々レジ打ちのパートをする主婦の及川恭子が、夫に自社に火を放った嫌疑がかかることにより徐々に変貌してゆく姿は、当たり前の日常、当たり前の望み、当たり前の幸福などというものがいかに脆く無力なのかをこれでもかと教えてくれます。
「今まで穏やかでいられたのは、追い詰められたことがなかったから」。
犯罪を犯したことで知らない自分が現れるのではなく、そこに行きつくまでの過程で人は何かが剥がれるように変容してゆくのかも知れません。
桐野夏生さんの小説で一番好きな「OUT」も少し頭を掠めました。
■最悪/奥田英朗著 2022年1月21日
題名だけの紹介ですが、最近立て続けに読んだ本です。
・暴虎の牙/柚月裕子著
・空中ブランコ/奥田英朗著
・イン・ザ・プール/奥田英朗著
「暴虎の牙」は、昨年の9月に図書館に予約を入れ、今ついに順番が回ってきた、ひときわ感慨深い作品です。以前の雑記帳で紹介した「孤狼の血」「狂犬の眼」に次ぐ、警察と暴力団をめぐる小説の3部作目になります。
ハードカバーで約500ページ、読み応えたっぷり。待ったかいが充分にある物語を堪能しました。本当に魅力に溢れる筆致です。
* * *
「最悪」も犯罪小説です。こちらは文庫で600ページと、かなり厚みがあります。物語にも、同様に厚みがあります。
小さな鉄工所を営む40代の男、チンピラな20代の男、銀行勤めをしている20代の女。
境遇のまったく異なる3者が、それぞれの日々の中でそれぞれの理由によりじわじわと追い詰められてゆきます。最後にとうとう出会ってしまう3人が取る行動とは。
特に、真面目に仕事をして、当たり前に家族を持ち、普通に生活をしている鉄工所所長の川谷氏の身にふりかかる出来事の数々は、決して命を脅かすような「大事件」とまでは言えないけれど、真綿で首を締められるような感覚を味わうものばかりで苦しくなります。
基本はお金に関わる問題で、それは取引先に納品した不良品絡みの弁済だったり、長女の短大費用の工面だったり、利益のあがらない鉄工所に革新的な機械を導入する計画だったり。
そこに近隣の住民から工場の騒音に対し苦情が入り、役所の担当も介入する始末。クレームは徐々にエスカレートし、大事な銀行との取引話で行員が訪れる当日、ついには反対運動の看板まで掲げられてしまいます。おまけに、雇っている元引きこもりの青年はろくに口を聞かず、平気で無断欠勤し、納期に一秒たりとも猶予がない仕事も途中で放り出して逃げ帰るといういい加減さ。とにかくもう毎日毎日心配事や厄介事や不安材料が蓄積する一方なのです。
その描写があまりに丁寧で現実味を伴うので、すっかり川谷氏に感情移入をし、我が事のようにとらえて、確実に暗闇に引きずり込まれそうな絶望感が増す心模様を共に体験できます。
全てを投げ出してしまいたい。人間生きていれば、一度くらいそんな心境に襲われるものではないでしょうか。
* * *
「イン・ザ・プール」「空中ブランコ」は、「最悪」と同じ著者・奥田英朗さんの作品で、連作短編集です。
医学博士の伊良部一郎精神科医が、伊良部総合病院の薄暗い地下にひっそり構える診察室で「いらっしゃーい」と明るく出迎えてくれます。
色白で、年の頃は30代後半。患者さんたちの頭の中で度々動物に例えられる伊良部先生ですが、だいたい「カバ」「トド」「水牛」が有力です。「アニマルテラピーだと思えばいいのか」と納得される場合もあります。様々な悩みを抱えた患者さんが面くらうほどの無茶苦茶な治療法を提案・実践し、注射フェチでなにかといえばすぐにビタミン注射を打ちたがり、言動は子供丸出し、マザコン疑惑も濃厚を超えてほぼ確実。
そんな伊良部医師が見栄やらつまらないプライドやらを誇示する必要もない相手と見なされ、なんでもかんでも話せる貴重な存在となり、気づけば誰もが足しげく通院する流れに。
心に居座る重石が取り除かれ、元来以上に軽やかさを取り戻すのです。
いたって適当で偶然良い結果を招いているのか、実は名医の狙いどおり計算どおりに事が運んだのかが語られることも一切ない、潔さと清々しさが好きです。次作の「町長選挙」で、また伊良部先生に会えるのが楽しみでなりません。
依存症、被害妄想、自意識過剰、恐怖症、強迫神経症・・・言葉にすれば重く響くけれど、中身を紐解いてみれば、深刻さの度合こそあれ、多くの人が一つや二つ身に覚えのある事柄に出くわすのではないでしょうか。
私は札幌で一人暮らしをしていた頃、出かける度に火の元が気になって仕方ない時期がありました。まさに登場する一人の患者さんと同じです。ルポライターが職業のその男性は、不安や心配が日々増幅し、もはやまともに外出もままならないほど。どうしても外に出なくてはならない際は、出先から自宅の固定電話にダイヤルして電話機が応答するのを確認したりします。
「!!」と内心で声にならない叫びを上げました。自分も実際、1、2回やった覚えが…
「冷静に狂うのはすごいことです」と伊良部医師が言うとおり、本人はいたって冷静に理論的に考えてはいるのです。自分の気にしすぎであることは、重々承知なのです。それでも追い払えない何かが体内に突如宿るのが、生身の人間です。今から思えば、「あの時は一体なんだったのだろう?」と単なる不思議な心理として振り返れます。
ちなみに、火事を恐れる強迫神経症の患者さんがライターという職業なのは洒落も含まれているのかしら?とも思ったり。
■モンスターマザー -長野・丸子実業「いじめ自殺事件」教師たちの闘い-/福田ますみ著 2021年12月31日
以前に紹介した、でっちあげ -福岡「殺人教師」事件の真相- と同じ著者のルポです。死亡者がいることもあり、更に気が滅入る内容となっています。
男子バレーボール部が強豪で知られる、長野県の丸子実業高校(当時の名)。2005年、一年生の男子部員が自宅で自殺をする事件が起こります。
すべてを学校、教師、バレー部のせいにして荒れ狂う母親ですが、その恐るべき実態とは。
題名の通り、あまりに凄まじい母親が登場します。もはや出会ったら最後という感じの人物像です。
普通の話が普通にできない、ものの道理が通じない、感情的すぎてまともな会話が成立しない、伝わってくるのは尋常ではない被害者意識と自己愛ばかり。全ての物事を当然のように自分以外の誰か・何かのせいにする。そういう人間を相手にしなくてはならない状況の異様さ。これは私も少々似たような経験をしてきており、多少なりとも辛さが分かるつもりです。精神を削られ、相当に疲弊する事実を承知しています。
母親の主張は、「バレー部でのいじめ行為や学校や教師の不適切な対応などにより息子は追い詰められた」とのこと。
のちに名乗りをあげた人権派弁護士も抱き込み訴訟合戦のような様相になるのですが、校長にいたっては、なんと殺人罪で刑事告訴までされる事態に陥ります。
自宅で自死した自分の生徒への殺人罪。さすがに面くらいましたし、かの弁護士に対しても疑問を感じずにはいられません。当然不起訴の判断が下されますが、この一件が物語るように、不幸な形で子を亡くした親はこうのような行動を取るのだろうかと、どうしても怪訝に思う出来事が続きます。
テレビカメラの前で自死に使用した道具すら晒して嘆いてみせる用意周到な悲劇の母親の叫びを聞くより、本当にその人物を知りたければ、普段近くにいる人、日頃関わりのある人に話を聞くのが最善の道だとよく理解できます。数人いる過去の夫たちの話を聞くだけでも色々腑に落ち、納得します。
「結婚後にいきなり豹変し、暴言や暴力をふるうようになった」と、皆ほぼ同じ内容を語っているのです。なお、元夫の一人である男性は離婚後に妻であった母親に対し民事訴訟を起こし、勝訴しています。周囲の証言や母親が家庭の内外で起こしてきた数々のトラブルが詳らかになるにつれ、男子生徒を追い詰めたのは本当は誰かがはっきりと見えてきます。
たった15,6歳の子が自ら命を絶つという、絶対的にやりきれない事実が立ちはだかる結果。「彼が死なずにすむよう、もっとどうにかならなかっただろうか」とぽっと自然に心に灯る思いが、「安全な場所から安全な状況で、すでに提示された結末のみをとらえて好き勝手言うだけの無責任な部外者」という業火でかき消される感覚がします。
個人的には、ある程度の年数を生きた大人が自死を選択することを真っ向から否定する気持ちはありません。何十年の生の経験をもってしても「これ以上生きたくない、生きられない」と明確な意思を抱く人に、「いや、がんばってもっと生きろ」とはとても言えないからです。
ただ、年齢の浅い子供となれば別です。その先、人間関係や環境の変化に伴い、肉体と精神の成長に従い、いくらでも考えが柔軟に変わる可能性を秘めているからです。
先に待つ人生を知る者など、存在しません。
「もしかしたら変わるかも。きっと変わるかも」と説く真似しかできなくとも、それを希望として子供の心に植え付けることが、大人の役目の一つなのかも知れません。
■でっちあげ -福岡「殺人教師」事件の真相-/福田ますみ著 2021年11月28日
不穏な題名の本書は、2003年に福岡で起きた、小学校教諭による生徒へのいじめ事件を追ったルポです。
被害者とされるのは、40代男性教諭が担任するクラスの男児。ある日、男児の母親が、「家庭訪問時に、先生から人種差別的な発言を聞かされた」
との苦情を学校へ報告します。母親によれば、自分にはアメリカ人の曾祖父がいると話したところ、男児にも受け継がれているその血を「穢れている」と表現し、徹底した差別感情をぶつけられたとのこと。そして、それを偶然耳にしてしまった男児がひどく傷ついているとのことでした。
その件を皮切りに、父親も参戦して、「うちの子が帰りの会の中で先生からこういういじめ行為をされた」「先生からこんな暴力を受けた」などと、常にその内容の具体的な描写を交えながら、教諭と校長を激しく糾弾し追い詰めてゆきます。そして、ついには「『自分で死ね』と先生に言われ、
うちの子はマンションの6階から飛び降りようとした」とし、学校側に教諭への厳しい処分を求め、民事訴訟へも発展することとなるのです。
担任の男性教諭は、ひたすら愕然とします。すべてが身に覚えのない出来事だからです。
大学卒業後に一度は一般企業に就職したのち、夢を諦められず教員採用試験に10回目で合格、30代半ばでついに教壇に立つことに。この経歴を聞くだけでも、教師という職に対し並々ならぬ意欲と覚悟を持った人物だと感じてしまいます。実際、生徒たちには慕われる先生であったようです。
しかし、彼の自他ともに認める優柔不断気味な性格に加え、喜怒哀楽をあまり表には出さない性質が、事態を悪い方へ導く一因となったのは確かだと思います。穏便に済ませたい学校側の方針のままに、事実ではないいじめや体罰を認め、両親に謝罪してしまったのです。それを踏まえ、市の教育委員会は教諭に6か月の停職処分を与えました。この流れは本当に憤りを覚えましたし、痴漢の冤罪問題も連想しました。
今は「モンスターペアレント」という言葉が周知されています。理不尽な言いがかりや常識外れの難癖をつける親が少なくない実態が、世に把握されています。でもそれが、まるきりの虚言、妄想であったらどうでしょうか。微に入り細に入り教諭のいじめの言動の説明をし、臨場感溢れる挙動で被害を懸命に訴え、
子を守る親として激高する。そんな両親の姿を見て、「嘘つきだ」と疑いを持てるでしょうか。まず多くのマスコミが、見事に騙されたのです。教諭はいよいよマスメディアにも責め立てられ、実名も暴露され、更に逃げ場を失ってゆきます。
そして、民事訴訟です。原告は男児とその両親、被告は教諭と福岡市です。原告側が警察に被害届を提出すれば刑事告訴も可能だったと思われますが、裁判は民事のみ。つまり損害賠償請求の形になります。
原告には、なんと500名を超える弁護士軍団がつきました。もちろん表立って動くのは代表弁護士ですが、その時点で異様な空気が漂う裁判です。負ける気など微塵もしなかったことでしょう。しかし、ある意味、原告一家がどこか裁判というものをなめてくれたお陰で、暴かれたような気がします。嘘が、妄言が、でっちあげが。
男児のPTSD(心的外傷後ストレス障害)の判定が重要な肝となった裁判中の記述を読みながら、何度も思いました。原告側の人間に精神鑑定を受けさせることはできないのかと。そのくらい、異常でした。虚言癖の一語で終わらせてはいけない、底のない暗黒の闇すら見える思いで戦慄します。そもそも事の発端となった差別発言「アメリカ人の血」から嘘だったのです。調査の結果、肉親に該当する人物は存在しないことが分かり、両親にも男児にも、
誰にもアメリカ人の血は流れていないと判明しました。
男児が「穢れた血」の言葉に深く心を痛めたという事実が、生まれっこないのです。母親がかねてより誇らしげに周囲に披露していたアメリカ絡みの経歴も、何もかも事実ではありませんでした。明確な意図が判然としない原告の母親の言動は、どんな血にまみれたホラーチックな物語よりも恐ろしく映りました。
個人的には、教職に就いている従兄弟や友人もおり、生徒さんたちに日々向き合う仕事を選択する人々を尊敬しています。
一方で、この事件ででっちあげられた人物に近いような、モンスター教師も実在はすることでしょう。
「真実」を知ることの難しさ。断定することの難しさ。現代のインターネット社会では、より痛感することが多いです。難しいからこそ、判断は慎重にならなくてはいけない。確かな事に辿り着くまで、丁寧に近寄り解きほぐさなくてはならない。先入観から、決めつけてはならない。自らにも改めて言い聞かせたいと思います。
なお、裁判では原告側敗訴の形にこそなりませんでしたが、申し立てた言い分はほぼ認められず、事のはじまりから実に十年の歳月を経て、教諭は懲戒処分を取り消されました。
■狂犬の眼/柚月裕子著 2021年11月2日
最近読んだ二冊です。
・ふたりの証拠/アゴタ・クリストフ著(堀茂樹訳)
・第三の嘘/アゴタ・クリストフ著(堀茂樹訳)
「ふたりの証拠」「第三の嘘」は、10月の雑記帳で紹介した「悪童日記」の続編三部作です。
こちらも20年前にはハードカバーを所蔵していました。時を経て今再び読み返すと、驚くほど内容を忘れていました。
「悪童日記」では語られなかった、当事者である双子の少年の名も明かされ、年齢を重ねながら営む生活や近しい人々とのかかわりが描かれます。「悪童日記」と変わらず魅惑的な文体の物語で、その世界観にひきこまれます。
ただ、個人的には、例えば推理小説などで重要人物が書き残したとされる興味深い手記が長々と綴られ、真剣に読んだ挙句、
"実はこの手記は別の人間が捏造して書いたものでした"とされるのを好まない方です。それがぴったり当てはまるわけではありませんが、「悪童日記」で目にしたその全ては作りごとで事実ではなかったとも解釈できる着地は、どこかがっかりするような寂しくなるような気持ちすら湧きました。
本当に、常に独特の感情を揺さぶる三部作でした。
ちなみに、作者のアゴタ・クリストフさんはハンガリー出身で、のちにスイスに亡命した作家です。当時日本でもその才能が話題になり、ご本人が公に来日したこともあったと記憶しています。
表題の「狂犬の眼」も、10月に紹介した「孤狼の血」の続編です。図書館に予約を入れてから2か月でついに順番が回ってきました。
広島県の架空都市・呉原東署捜査二課暴力団係を離れ郊外の駐在所勤務となった日岡巡査が、一人の筋をとことん通す切れ者の極道との濃密なかかわりを経て、巡査部長に昇進しマル暴へと返り咲きます。正義とは仁義とは任侠とは。正しさや信念というものは、人の数だけ存在してしまうのでしょう。心に熱いものを持つ男たちが生き様を魅せます。
こちらも三部作で、続く三作目の「暴虎の牙」も同じ頃に予約しましたが、今現在のところ、あとちょうど100人の手に渡り読み終えるのを待つ状態です。今までは予約図書の受け取りに待ち人がいることがほぼなかったので、人気が集中するとこうなるのかと新鮮な衝撃を経験しました。
■悪童日記/アゴタ・クリストフ著(堀茂樹訳) 2021年10月1日
最近読んだ本です。
・孤狼の血/柚月裕子著
・絶望ノート/歌野晶午著
・こわれもの/浦賀和宏著
・間宵の母/歌野晶午著
表題の「悪童日記」は20年ほど前にハードカバー本を購入していたのですが、以前長距離転居の際にほとんどの蔵書を処分してしまい、その中に含まれていました。その時は、もう読まないだろうと判断したと思われますが、ところがどっこい。
本というものは、いつまた再び読み返したくなるかまったくもって分かりません。今回痛感。急に無性に読みたくなり、その世界観を堪能しました。
時代や場所の記述がない物語。
おそらく第二次世界大戦下のハンガリーが舞台で、「大きな町」に住む双子の少年が、疎開のために親元を離れ「小さな町」にやってきます。
そこには、単身で自給自足暮らしをしている母方の祖母がいるからです。彼女は過去に自分の亭主を毒殺したと噂され、町の人々には「魔女」と呼ばれる人物。
双子は双子で、ただの子供たちではありません。一心同体を超越しているかのごとく、本当は一人の存在なのではと疑いたくなるような一体感を醸し出す二人。
過酷な世の中を生き抜くためには強い人間になる必要がある事実をすぐに悟り、独自にあみ出した「練習」の数々を日々重ねてゆきます。
二人で交互に殴打し合ったり、息苦しくなるほどの罵声を浴びせ合ったり。それはある意味、人の心をなくすための練習でもありました。
奇妙な3人の奇妙な共同生活。甘い展開は皆無で、残酷さに満ちていると言っていいのに、個人的にはなぜか不快感がわかず、独特の空気に支配された読書体験を清々しくさえ感じます。
不思議な魅力を備えた筆致なのです。
初めて読む作家・柚月裕子さんの作品「孤狼の血」もとてもよかった!
昭和の広島が舞台、簡単に言えば警察(マル暴)と極道の争いの物語。ある種王道でありながら、登場人物の魅力、現実味のある素晴らしい描写や話運び、
捻りと余韻のある結末に釘付けになりました。文章自体も大変好みで、文字を追うのが心地よく、嬉しくなってしまいました。
三部作ということなので、続く「狂犬の目」「暴虎の牙」もぜひ借りるつもりです。・・・が、人気を物語るべく、前者は数十人待ち、後者は数百人待ち。
予約を入れて気長に楽しみにいたします。
■凶悪 -ある死刑囚の告発-/「新潮45」編集部著 2021年8月21日
この数か月の間に読んだ本です。
・愚行録/貫井徳郎著
・葉桜の季節に君を想うということ/歌野晶午著
・イニシエーション・ラブ/乾くるみ著
・マボロシの鳥/太田光著
中でも突出して読み応えがあったのが、犯罪ルポである表題の「凶悪 -ある死刑囚の告発-」です。
茨城県で実際に起こった「上申書殺人事件」の発覚から裁判までを追った内容なのですが、あまりにも特殊な点があります。
これは、すでに強盗や殺人の罪状で死刑判決を受けている元暴力団組長の男が、上訴中に獄中から別の殺人への関与を告白する形で明るみになった事件なのです。
2013年に映画化もされています。
表沙汰になっていない、何件にも及ぶ余罪。死刑囚はそれらの事件を公にすることを望み、新潮社のある雑誌記者を指名して面会や手紙のやり取りを重ねます。
時におぼろげな記憶を辿り、少しずつ事件の詳細に迫り、どうにか警察を動かし立件できるよう証拠を押さえるべく奮闘します。
死刑囚には、どうしても法的な制裁を受けさせたい人物がいるのです。
かつては「先生」と呼び慕い、共に蜜月を過ごした不動産ブローカーの男。彼は人の死をお金に変える錬金術師。
死刑囚は「先生」と共謀して幾度も殺人を実行し、不正な不動産の転売や死亡保険金の受取りによって大金を得てきました。
彼らがつかんだすべてのお金は、死臭が漂うものとなっているのです。そして、「先生」は何ら罪に問われることすらなく、愛する家族と立派な豪邸で暮らし続けています。
その「先生」の凶悪な凶器として多数の人間を殺めてきた死刑囚が全身全霊をかけて「先生」を追い詰める覚悟を示したのは、
自分が死刑判決を受けることになった事件で逮捕されたのち、かわいがっていた舎弟の男が自死した件が決定的な引き金になりました。
舎弟は生活能力に乏しく、死刑囚は自分が消えたあとの彼の行く末を案じて「先生」に重々面倒を見てくれるように依頼していました。
ところが、「先生」は約束を違え見殺しにした挙句、彼の実家の不動産を奪い取りました。死刑囚にとって、それだけは断じて許すことのできない所業だったのです。
もちろん、新たな犯罪の告発をすることにより、自らの死刑執行を先伸ばしにする意図は、多少なりともありました。
実際に公判の中で本人も認めています。筆者である記者も、その側面が存在するのを端から充分承知でした。
それでも、それを遥かに凌駕する死刑囚の「先生」への憤怒と執念を信じて、葛藤がありながらも確実に取材・調査を進め事件の解明に努める仕事人の姿勢にはとても引き込まれました。まさに骨太のジャーナリズムを見た気持ちでした。
結局、「先生」が絡む事件で立件できたのは、ひとつの保険金殺人だけでした。「先生」は最後まで罪を認めませんでしたが、裁判で物を言うのは証拠と証言。
地獄へ道連れとまでは叶わなかったものの、最も重い懲役刑が言い渡されました。死刑囚と雑誌記者という異例の組み合わせが、
根気と行動力を要する共同作業の末、闇に葬られていた悪事をたぐりよせ、悪人を引っ張り出した見事な結末を招いたと思います。
他人の命をお金としか見なさない。けれど妻や娘は大切にしてよき家庭人を演じている。暴力行為や殺人行為は基本的に人任せ、自分の手は汚さない。
役に立たず見限った仲間との約束など平気で反故にする。保身には余念がなく、取材からも逃げ回る。凶悪にして、どこか薄っぺらいのが、「先生」の実体だったように思えます。
告発者の死刑囚が怒り心頭となったのは、「先生」の不誠実さにほかならなかったと感じました。
反対に、筆者の文章からは、常に誠実さ・真摯さが感じ取れました。改心が見られるとはいえ、極悪人には違いない告発の主と長い時間をかけてこれ以上なく向き合い、
本願であった「先生」の裁判を終えてなお、死刑囚との交流は刑執行のその日まで続くだろうとも綴っています。個人的に感銘を受けた一文でした。
十代の頃から犯罪ルポものは好んでそれなりに読んできましたが、当たり外れが大きいという印象を持っています。
一度読み始めた本を途中で放棄するというのは、どんなジャンルでもできる限りしたくないと思うたちではあっても、筆者の独りよがりで偏狭な視点が強く露出しすぎていたり、
過剰な誇張や演出表現が目立ち自己顕示欲以外の要素を表していないような内容に出くわすと、本当にがっかりしてしまいます。
現に、一度だけ序盤で脱落した有名な殺人事件を扱った本もありました。
犯罪のノンフィクションである以上、原則として「中立・公平」な立場はやはり揺るがして欲しくないなとつくづく考えさせられます。
そのうえで取材対象に一個人として抱く感情を効果的に伝えてもらうことで、人の心が説得力をもって響くような気がします。
ちなみに、「消された一家 -北九州・連続監禁殺人事件-」/豊田正義著 (新潮社) を読んだ時も、同様の信頼を強く感じました。
非常に特異で凄惨なため広く知られており、人間の残酷性をこれでもかと語る救いようのない凶悪事件ですが、生還した被害者が存在したことは唯一の光です。
■甲斐庄楠音画集 ロマンチック・エロチスト 2020年7月16日
明治に生まれ、大正に活躍し、昭和に没した画家です。
女装もするし男色の噂も漂うしで、実に独特な経歴の持ち主であると言えると思います。
昭和時代には、映画制作にもかかわりました。時代劇の風俗・衣装考証などの役割を担ったようです。
本当は、画集の中身を開き、作品をたくさん紹介したくて仕方ありません。表紙で興味を持たれた方は、ぜひ実際に本を手に取ってみていただきたいです。
私もいつかは自分の蔵書にできたらと願っているものの、今回は図書館で借りました。数ある横浜市内の図書館でも置いているのは1館1冊だけでしたが、まさか取り扱いがあるとは思っていませんでしたので、嬉しくてすぐに取り寄せました。
絵なので基本的に好みの問題ではありますが、少なくともこの表紙を飾る一枚「島原の女」を見て才気というものを感じない人は少数派ではないでしょうか。
女人を数多く描き残しており、目には見えないはずの内に渦巻く情念やくすぶった妖気、身にまとう怨念さえも匂ってきそうな作品が目立ちます。
中でも裸婦像は、いかにもモデル然とした整った肢体の女性ではなく、全体的に豊満でお腹が出ていたり乳房が垂れていたりと、やや崩れた女体が中心的に登場します。しかしその全身からは、生身の人間でしか持ちえない存在感、汗ばみ血の通った女という生き物の色香が確かにほとばしっているのです。
女性に対する独自の視点が確立しているように思え、あまり綺麗事ばかりを重視しない人物なのかなという感想も抱きました。
なお、自分のお目当てのひとつであった美しい「春」という作品が、小さめの白黒画像での掲載で、そこだけが個人的にちょっぴり残念でした。欲を言えば、これは見開き1ページのカラーで見たかった・・・!
ちなみに、甲斐庄楠音を知ったきっかけは、昔に購入した短編集の文庫本「ぼっけえ、きょうてえ」/岩井志麻子著(角川ホラー文庫)の表紙でした。「横櫛」という作品は、これ以上なくこの本に合っていると感じました。
表題作は、女郎がお客に聞かせる寝物語。ぼっけえ、きょうてえ(とても、こわい)物語。
暗い室内に渦巻く情念・怨念が、蝋燭の仄かな明かりに照らされてゆっくりと紫煙のごとく立ち上る様が見えるような雰囲気でした。
そしてその念は天井で行き先を失い、いつも当人の元へ戻ってきていそうです。
岡山の方言が効果的で、怪談めいた風情なのに、怖いというより哀しみの感情を刺激します。
「横櫛」/甲斐庄楠音画集 ロマンチック・エロチストより
■りんご だんだん/小川忠博著 2020年7月16日
こちらは絵本の紹介です。
一個の赤いつやつやのりんご。このりんごを放置し、約一年に渡り変化を写真に撮り続けるという興味深い試み。りんごはどの時点でどんな変貌を遂げ、最終的にはどうなるのでしょうか。
最後までページをめくった小さな子供さんたちがどんな感想を持つのかも気になるところです。
私は、真っ先に仏教画「九相図(くそうず)」を思い出しました。
「九相図」は、人間の遺体を屋外で風にさらしたままにし、その朽ち果てる変化を絵にしたもの。
最後は骨となり、その骨も土に還ります。まさに諸行無常。
描かれた人物は檀林皇后で、死後の移ろいを描き残すのは本人の希望であったと言われています。
■ソロモンの偽証(三部作)/宮部みゆき著 2019年12月31日
この半年ほどの間に読んだ本です。
・震える牛(相場英雄著)
・半落ち(横山秀夫著)
・誘拐児(翔田寛著)
・彼女の血が溶けてゆく(浦賀和宏著)
・彼女は存在しない(浦賀和宏著)
・優しいおとな(桐野夏生著)
・抱く女(桐野夏生著)
・バラカ(桐野夏生著)
・ハピネス(桐野夏生著)
・奴隷小説(桐野夏生著)
・だから荒野(桐野夏生著)
・猿の見る夢(桐野夏生著)
・夜また夜の深い夜(桐野夏生著)
・悪の教典(貴志祐介著)
・死ねばいいのに(京極夏彦著)
最近読み終えたのは、表題の「ソロモンの偽証」です。
こちらは、700ページを超えるハードカバー三冊に分かれており、計2000ページ超の三部作(事件・決意・法廷)となっています。
かねてより気になっていた大作であり、実際に久しぶりにどんどんページをめくりたくなる衝動に駆られる作品でした。睡眠時間を削ってでも読み進めたいけれど、疲れてふわふわ状態の脳で、勢いで通り過ぎてしまうのももったいない。そんな気分でした。
一人の少年が、雪が降るクリスマスの深夜に、自身が通う中学校の屋上から転落して死亡する。
柏木卓也少年。幼い頃から病弱で精神も繊細、学校になじめない彼には友人もおらず、このひと月は不登校の状態となっていた。
遺書と思しきメッセージなどこそ残されていないものの、警察をはじめ家族や生徒たちも当然のように自殺だと受け取る。しかし、ほどなくして柏木少年の殺害現場を目撃したという内容の告発状が公になる。
匿名で出された文書には、手を下したとされる実行犯が実名で挙げられていた。それは同じ中学校に在籍する札付きの不良生徒の名であった。更に、この学校にまつわる不幸な出来事の連鎖はこれだけでは終わらなかった。
警察官、記者、教師、保護者、遺族。大人は真実を教えてはくれない。突き止めることはできない。本当のことを知るために、柏木少年とさほども親しくなかった同級生たちが動き出す。誰のためでもなく、それぞれの思惑のために。
いわゆる謎を解明する「ミステリ小説」だと先入観をもって読み始めたのですが、率直に述べれば、真相自体には大きな驚きはありませんでした。
そうではなく、この小説は一番に謎解きに重きを置いた話ではなくて、登場する個性を備えた一人一人の中学生たちが悩み、もがき苦しみ、葛藤し、変化し、
そして驚異的な成長を遂げてゆく様を丁寧にすくい上げるように積み重ねながら描いている物語なのでした。
宮部みゆきさんは多作なので、到底すべての作品を知っているわけではありませんが、過去多少なりとも読んできました。自分の好みは「火車」と「模倣犯」でした。
「ソロモンの偽証」は、どことなく「模倣犯」の系譜のように感じた次第です。
中学生は、子供です。子供だからこそ苦しむ事柄がいくらでもあることを、子供だからこそ逃れる術のない閉塞感に囚われることを、
その時期を経験して大人になった多くの人間は理解しています。理解しているのに、時の経過に伴い感覚は薄れます。忘れもします。
言葉で表せばそれが「思春期」だと振り返ることができるわけですが、そんな風に一口に括られては、中学生を生きる彼らにしてみればたまらないでしょう。
彼らは、自分たちの力で真相を明らかにするべく、中学三年の夏休みに学校裁判を開廷します。判事、弁護人、検察官、被告人、証人、陪審員、個々の役割を担い、
たった14、15歳の子たちとは到底信じられないほどの準備を重ね、その過程でさんざん傷つきながら、やり遂げる決意を固めます。
いくら学内でも優秀な生徒を中心人物に据えているからといって、さすがに中学生にしては頭脳の明晰具合や行動力や言語能力が凄すぎやしないかと、
やや引っかかる点もありました。けれども、宮部みゆきさんの文章からは常に物書きとしての誠実さが滲み出ており、そのささやかな違和感に固執する気を削いでくれます。
どんな人間であれ、生み出し登場させた人物一人一人に最後まで責任を持つ姿勢がみられるような真摯さを感じるのです。
生意気を言うようですが、これが「信頼できる作家」「読ませる作家」なのだなと改めて思いました。
人間の顔は一つだけではありません。相対する人が誰なのかで、小さく変わることも大きく変わることもあります。意図せずに関係性が自然にもたらす変化も存在します。
中学生が自分たちの法廷で追究したものは、事件の真相だけではなく、生前知らなかった柏木少年の「顔」そのものでもありました。
そして、柏木少年を通してこの裁判に深くかかわった多くの人をも暴き、解明し、その魂の救済に貢献する結果へと向かうのです。
閉廷したあと、「本当によくやったね」と保護者目線で彼ら彼女らの頭を撫でて労いたい気持ちが湧くと共に、自分でも意識しないうちに涙が溢れて頬に流れ落ちていて、
びっくりしました。まるで一生に一度の暑い夏を一緒に駆け抜けたあとかのように、脱力感やら安堵感やら虚無感やら寂寥感やらが束になって襲ってきて、
それだけ思い入れて読んでいたのかと、驚きと充足感をもってそっと本を閉じたのでした。
■ツバキ文具店/小川糸著 2019年9月30日
離れて暮らす母から読みたいと思っている本だと聞き、自分も図書館で借りてみました。
代書屋という特殊な生業はとても興味深く、大いに楽しく読み進めました。登場人物たちの交流も、心を柔らかくさせ、静かに温かい想いで満たしてくれるものでした。
そして何より、「文字を書きたい」との気持ちをそわそわかき立てる小説でした。
筆記具を取り、一文字ずつ丁寧に綴る作業には計り知れない意味や価値があると思います。億劫がらず、折に触れ手紙をしたためようとの決意を固めてくれる物語でもありました。
・・・いつまで続くかは分かりませんけれど。
■夜の谷を行く/桐野夏生著 2022年6月30日
好きな作家ながら、この数年は読書の機会をあまり得られずにいたので、桐野夏生さんの新しい作品の情報にも疎くなっていました。
大抵の場合、少なくともなんとなくの概要は帯によって知ったりするものですが、今回は図書館本でそれが付いておらず、内容に関する予備知識は完全にゼロの状態で手に取り読み始めました。
知らないでいることが難しい今の時代に、知らないことにわくわくしながら。
※下記の感想では物語の詳細に触れていますのでご了承ください※
時は2011年。アパートで一人ひそやかな生活を送る、60代の独身女性・西田啓子。
元小学校教諭で以前は個人塾を経営していたが、現在は職には就いておらず、貯金と年金を頼りに細々と暮らしている。
平日の日中には、自転車を漕いで格安のスポーツジムへ行く。まるで中学生でもあるかのように過剰な集団行動を取る老女たちの意地悪さや陰湿さには辟易するばかりだが、
面倒に思いつつも事を荒立てないように受け流している。そのために目当てのレッスンを受けそびれる日すらある。他人と深くかかわることを避け、注目される真似を嫌い、ひたすら目立つ言動を封印して生きる道を自ら選択しているのだ。
己の身形にも構わず、ジム近隣の駐輪場管理人である同年代と思しきの男性にも、見下された態度を取られて嫌な思いをしたりする。
食事も、簡素に野菜鍋を作って夜には餅を足してまた食べたりする。
ささやかな楽しみとしての習慣は、図書館で本を借りること。
秀でた容姿も、突出した特技や才能も持ち合わせない啓子は、平凡の中に身を隠すように日々をやり過ごすことができている。
だが実際は、40年前に連合赤軍の女兵士として、あさま山荘事件に繋がる「山岳ベース事件」にて生き残り逮捕され、5年間服役した過去を持つ人物なのだった。
ある晩、長年の沈黙を破りかかってきたかつて同士だった男からの電話が、啓子の内面にさざ波を立てる。
物語は、こうした啓子の暮らしと心が、実妹の娘で自身の姪にあたる佳絵の結婚話を機に少しずつ静かに綻びを見せてゆく様が描かれます。
日本の犯罪史に残る重大な事件により再び大々的に世間から注目されるだとか、社会的に糾弾されるだとかの規模の視点ではなく、あくまで啓子の周辺がざわざわと波立つ感覚です。
そのある種の地味さは好ましく心地よく、個人的には桐野夏生さんの物事への着目の仕方の大きな魅力だと思っています。
刑期を終えてからの啓子は、革命左派の兵士として連合赤軍に所属した一連の過去が露見しないよう気を配って生きてきました。
両親もとうに亡くなった今では、詳しく事情を知る近しい相手は妹の和子くらい。姪の佳絵は啓子なりに大切にしている数少ない絆で、彼女にも一切を打ち明けずに隠し通してきました。
その佳絵が妊娠をきっかけに結婚することとなり、置いてきた過去が猛烈な駆け足で追い付いてきて問題が発生し始めるのです。
連合赤軍については、実名も多く登場し、死刑確定後の最高幹部の一人・永田洋子が2011年2月に東京拘置所で脳腫瘍により死亡した件を筆頭に、事実も重要性をもって挿入されます。
山岳ベースでの永田の真の目的こそ作者独自の迫り方がやや入っているのかも知れませんが、詳細は世に知られている実際の事件から逸脱するわけではなく、自然に啓子も実在の人物なのではないかとの錯覚を得たりします。虚実の融合が
始めから終わりまであまりに見事です。
感傷的な女として描かれてはいない啓子ではありますが、兵士だった当時永田にはかわいがられており、飛び込んできた永田死去の報には衝撃を受けます。ひとつの時代が終わったと。翌月起こる東日本大震災も経て、その思いを更に強く
します。アパートの部屋に現れた蜘蛛を、永田の魂のように感じたりもします。
そして、永田の死が呼び寄せたかのごとく啓子の日常に足を踏み込んでくる人物たちの人間性も掘り下げられます。
癖が強い昔の同士であったり、今はホームレス同然のかつて夫だった男であったり、私的に事件への興味を示すライターの中年男性であったり。
いわゆる健全とは言い難い人間関係にまつわる絶妙な語り口の心象描写や台詞に触れる度に、こういう表現力はこの作者の右に出る者はいないとすらいつも感じます。
どう贔屓目に見ても誰一人「他者から好かれる魅力的な人間」は存在しないのに、その心理、思考、心情をじっくり知りたくなり、発する言葉ひとつに意味を見出そうとし、
選ぶ言い回しひとつで人柄の本質を推し量ろうとする意欲が発動してしまうのです。
特に、実妹である和子との「好き・嫌い」「仲が良い・仲が悪い」などのようには簡単に分類できない複雑にもつれた家族関係は、切実な現実感を伴って響きます。
単に老人の年齢となった姉妹二人が安普請の部屋などで交わすだけの会話なのに、静かに緊張感を漲らせており、どのやり取りにも大いに引き込まれます。
安定しない、接する毎に振れる要素をはらむ間柄であることは間違いありません。
啓子が末端兵士であった昔に永田に気に入られた理由として、米軍基地に侵入してダイナマイトを仕掛け、建物の爆破を実行した点が挙げられました。
被害は小火程度で終わったものの、勇気を評価されたのです。
しかし、40年の時を経て、その行為が今度は「大事な姪の結婚式に参加できない理由」に変換されることとなります。啓子の過去を知らない佳絵は、サイパンでの挙式を楽しみに計画していました。が、啓子がアメリカに入国した場合、
「ロス疑惑」の三浦和義氏のように当局に逮捕され、米軍基地襲撃の件でそのまま裁判・投獄となる可能性が高い事実が判明するのです。
渡米できない理由を正直に話せば、最悪の場合結婚自体が破談になるかも知れない。佳絵はすでに身籠っているというのに。
けれど、啓子は佳絵にすべて打ち明けることをあっさり決めます。
もはや「革命」などからとはかけ離れた山岳ベース事件の現場で、多くの同胞が「総括」の名にすり替えられた私刑による惨たらしい死を遂げてゆく過程に居合わせ、
遺体を運び土中に埋める役目をした。簡単に言えば、それが啓子の事実です。
しかし、当人には悪い行いをした自覚は薄く、反省する気持ちも持たず、服役ですべて罪は償ったとの認識でいます。
もちろん、それは法的な解釈としては相違ないのですが、あらゆる凶悪犯罪に伴う加害者家族の悲劇が物語るように、ある面では犯罪歴は本人以上に血縁者に重くのしかかるもの。
かつて、和子は啓子の事件が原因で激怒した夫と離婚になりました。佳絵は、理由も分からず父親を失った形になります。
親戚たちも、皆猛烈な憤りを訴え縁切りし離れてゆきました。そもそも、佳絵が海外での挙式を考えたのも、
新婦側の身内の出席者が母和子と伯母啓子の二人しかいないことを考慮しての決断でした。
それなのに、サイパンでの結婚式も結局キャンセルせざるを得ず、凄惨な集団リンチ殺人事件に深くかかわった伯母の恐ろしく暗い過去を突然突きつけられることとなったのです。
啓子の告白は、拠り所としている佳絵との関係も蝕み、「身勝手な人間」と烙印を押されると共に彼女からも明確に距離を置かれる結果を招きました。啓子は、身近な人を誰も幸せにはしないのです。
犯罪でも、犯罪には至らない良からぬ行いでも、当事者がもっとも事の重大性を理解できない気がするのは、客観性の不足が原因か、自身への甘さゆえか、もっと根源的に人としてなにか欠落があるからか。そんな風にも考えさせられます。
山岳ベースで啓子の根底を支えたもの、それはおそらく「保身」でした。どんなに小さなあげ足取りの事柄であっても、革命戦士にそぐわない言動をしたと見なされれば、次はたちまち自分が総括の対象となる。対象となれば、生き地獄を
味わい死んでゆく結末しか用意されていない。そうはなりたくない。どうか自分以外の奴を選んでくれ。下っ端の自分は、指導部の連中の指示通りに動く。言うままになる。死なないために。生き抜くために。
そして生還し、40年の歳月を経て舞い戻ってきた過去との対峙。そこでも、見え隠れするのはやはり保身ばかりなのでした。
責められたくない。面倒から逃げたい。鬱陶しさから解放されたい。
我が身がかわいいのは、誰でも当然のこと。自分を守ろうとするのも同様です。けれど、きっと本人が自覚するより遥かに、保身の周囲には不自由さと息苦しさが充満していると感じさせます。保身は決して人を解き放ち自由にはしないのです。
しかしながら、そんな啓子にもひとつだけ誰にも告げることなく抱えてきた秘密がありました。
その秘め事にだけは、彼女の真の決意と信念が込められており、優しさや思いやりといった善の心もすべて一緒にそこに秘めたのだと思わせられました。
そして、最後の場面では、一点の僅かな希望を灯した光が啓子を照らします。
彼女の救いとなるかは、誰にも分かりません。
読み応えがあり、決して明るいとは言えない様々な人間の機微が息づく素晴らしい小説を読んだとの満足感でいっぱいになる一冊でした。
読後、小さな蜘蛛を室内に見つけ、あっと声が出そうになりました。
※連合赤軍・・・1971-1972年に活動した、「赤軍派」と「革命左派」の二つの組織が互いの利害の一致により共闘するために合体し結成された新左翼集団。
羆嵐/吉村昭著 2014年3月10日
現在季節は春へと動いてはいるが、真冬の厳しい冷え込みの中、時に吹雪で染まる夜は、札幌の片隅であるこちら月寒周辺のごく標準的な地域環境下でも、その辺を熊が普通に歩いていても驚かないと、冗談でもなく口にしたくなる独特の印象を受けたものだ。
雪と熊。なんとなくイメージとしてしっくりくる組み合わせだが、そんな雪の中で活動する野生の羆(ひぐま)こそ、畏怖するべき存在だという。冬に動く「穴持たず」と称される彼らは、自らが入る穴を持たない、つまり何らかの理由により冬眠をし損ねた熊だということらしい。当然、お腹を空かせた状態にある。そして、人間もその食欲の対象には大いに含まれる。
「羆嵐(くまあらし)」には、日本史上最大最悪の獣害事件とされる、大正4年に北海道留萌苫前村で起きた「三毛別羆事件」が描かれている。ひとことで言えば、一匹の羆が凶暴に人間を襲い、数日で7名の死者と3名の重傷者を出した話だ。
予め凄惨な概要を承知の上で読んだので、以前に初めて事件を知った時のような大きな衝撃は受けずに済んだが、それでもひたすら食欲のみに突き動かされる言葉を持たぬ巨大な生き物の怪物的な凄まじさには恐怖せざるを得ない。むろん情け容赦は一切ない。彼の目に留まる人間は、ただの餌なのだ。
はじめに女を食べて味を知ったとの理由で、その後執拗に女だけを狙う徹底ぶりにも戦く。一家全員が立ち去った後の無人の家屋では、女性の衣類や所持品ばかりを荒らしていたという。
壮絶な恐怖の渦中に身を置く村民たちと共に闇に息を潜め、すぐさま遠くへ逃げ出したい切実な本心に同調し、叶わぬなら必死に効果的な隠れ場を頭の中に浮かべる思い。どこだ。どこなら安全なのだ。天井に張りつけばやり過ごせるのか。
羆は強靭な体躯と怪力だけでなく、賢さも持ち合わせている。足取りを誤魔化す「戻り足」という追手を騙す術には、想像したら震えがきた。雪道のある地点で歩みを止め、そのまま自分が付けた足跡をぴったり踏んで引き返し、途中で木の茂みなどに身を隠す。そして、足跡を追ってその場を通り過ぎる銃を持った人間を背後から襲うのだ。
そんな羆と最終的に対峙して倒すのは、一人の老練な熊撃ちの男だった。そこに至る経緯を辿れば、確かな銃器と豊富な経験に加え、冷静な心身が恐怖心を凌駕してこそはじめて真の武器と化すように強く感じられる。
ドキュメンタリー小説であり、筆致には大袈裟な演出も見られず、北海道の冬の描写と共に物語は最後まである種淡々と進んでゆく。熊撃ちの名人銀四郎も最終局面になってようやく現れるのだが、翳りを伴う人物像には魅力があり、決して紋切り型の正義感溢れるヒーローとして描かれているわけではないあたりも、個人的には好みだった。
シロクマを筆頭に、熊はとても可愛らしいイラストやキャラクターとして起用される場合も多い。実際に動物園ではチャーミングな様子の彼らに会うこともできる。
熊=害と位置付けるのはもちろん違うだろう。本来彼らが普通に生きる場に人間が踏み込んで、自然を変えたという見方もできるだろう。けれど、そのような感慨を挟む余地などまったくない阿鼻叫喚の地獄絵図がある日突然目の前で展開され、周囲の人間が食い荒らされ、無残などと軽々しく表現できない姿形にされてしまったら。そして自分も同じく生きながら熊の餌となる危機に、絶えず晒される事態に陥ったら。逃げることが許されないなら、正気を保ってはいられないだろう。そしてその後、相手をいかにして倒すか以外に頭を占める考えなど湧かないのは明白だ。
姿を見れば、未知の生物ではなく、「あれはクマです」と皆が分かる。だから、取り敢えず口から変な粘液を噴いたり、肩がぱかっと開いて何らかのミサイルを発射したりはしないことも分かる。だが、ではほかに何を知っているだろう。例えば、「火を恐れる」「死んだふりが有効」など巷で信じられていた説はことごとく打ち破られる。羆は火を絶やさない屋内にも平然と乗り込み、遺体も捕食する。この流れは心底愕然とする場面だ。もはや未知の生物と相対する状態と同じか、あるいはそれ以上の絶望をもたらすのではないか。
そんな風に言いはじめたら、我々個々の人間こそ未知の生物以上の未知の生物に晴れて輝くことになりそうだが、とにかく、「敵を倒すには敵を知れ」という表現が真理だと分かる内容であったとは思う。
妙な結びになったが、これは対熊・対敵だけに限らない。「知る」という行為がどれだけ重要であるか、改めて色々と考えさせられる昨今なのだった。
ちなみに、これまで熊に関して特に深く考える機会はなかった。北海道で暮らすようになった今だからこそ、手が出た小説なのかも知れない。
*これ以前~2000年は割愛させていただきます
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