2014年3月10日(月)
過日、青森産のりんごがたくさん届く。赤い色が20個ほども並ぶと、急に室温まで暖かく上昇してくれたように感じるそんな甘い香りの果実を煮て、アップルパイを作ってみることにした。弘前さんちのりん子ちゃんのお陰で、よいお味にできあがった!冷凍パイシート侮りがたし。
甘いものつながりで、昨月2月にクール便でやってきた、贈り物のカピバラさんを紹介させていただきます。
なんという愛らしさなのだ。しもぶくれ加減もたまらない。美味しそうだが、これはなかなか食べられまい・・・罪なうい奴らめっ!と、お二方には冷蔵庫で待機していただく。
舌の根も乾かぬその翌日。仕事の休憩時にちょっと甘味がほしくなる。
更にその翌日、茶カピバラさんも同じ運命を辿ったことは言うまでもない。
チョコレートコーティングの下はふわふわムースで、とっても美味でございました。
日本列島各地で桜が咲き始めた3月下旬。ようやく雪の代わりに雨が落ちるようになったこちら北の地ではまだ造花のみ。実際の開花は5月上旬頃まではおあずけですが、桜色の各地の写真を目にするだけでうららかな春を確かに感じられます。
イメージ協力:カピバラさん(げっ歯類)
過日、父の77回目の誕生日であった。
喜寿を迎えた父は、今も3000m級の山に常に一人で向かっては意気揚々と登山を楽しむ、姿勢のよい兵である。
姉夫婦が中心となり当日お祝いの会食の場を設けてくれたので、私はその前日、実に四年ぶりに札幌から千葉県の実家に飛んだ。飛行機と電車でちょうど六時間移動し続けて懐かしい我が家に到着。母の手料理、家族皆の笑顔に歓待され、久しぶりに憩いの時間を過ごす。
会食は都内の小笠原伯爵邸にて。食事はもちろん上品で美味しく素晴らしい内容だったが、こちらの建物がまた素晴らしい。 帰り際にお店の方に邸内を案内してもらったところ、かつて女中さんたちが使用していたという部屋が大層素敵で、思わず住みたくなった。このような機会でもなければなかなか訪れることもないであろう、魅惑的な場所だった。移動時の荷物を減らすためにカメラを持参しなかったことが唯一悔やまれる。
父への喜寿祝いの贈り物。想像以上に喜んでもらえ、とても嬉しかった。そっとソファに置いて、普段はあまりしないと思われる携帯電話での写真撮影をはじめる姿に少々にやける。
冊子サイズはB6大(縦19cm横13cm)。見開きの左面にはポケットをつけ、メッセージ等を収容。右面には、L判写真を縦向きに挿入できる枠を設けた。全体としては、結婚証明書冊子をそのままミニサイズにした感じである。
表紙には喜寿の「喜」を。喜びも兼ねる良い一字だ。次回米寿のお祝い時には「米」となるのか。お米も兼ねる良い一字なのか。やや意味不明になりはしないか。
ちなみに、家族も私も皆お米は好きである。
現在季節は春へと動いてはいるが、真冬の厳しい冷え込みの中、時に吹雪で染まる夜は、札幌の片隅であるこちら月寒周辺のごく標準的な地域環境下でも、その辺を熊が普通に歩いていても驚かないと、冗談でもなく口にしたくなる独特の印象を受けたものだ。
雪と熊。なんとなくイメージとしてしっくりくる組み合わせだが、そんな雪の中で活動する野生の羆(ひぐま)こそ、畏怖するべき存在だという。冬に動く「穴持たず」と称される彼らは、自らが入る穴を持たない、つまり何らかの理由により冬眠をし損ねた熊だということらしい。当然、お腹を空かせた状態にある。そして、人間もその食欲の対象には大いに含まれる。
「羆嵐(くまあらし)」というドキュメンタリー小説には、日本史上最大最悪の獣害事件とされる、大正4年に北海道留萌苫前村で起きた「三毛別羆事件」が描かれている。ひとことで言えば、一匹の羆が凶暴に人間を襲い、数日で7名の死者と3名の重傷者を出した話だ。
予め凄惨な概要を承知の上で読んだので、以前に初めて事件を知った時のような大きな衝撃は受けずに済んだが、それでもひたすら食欲のみに突き動かされる言葉を持たぬ巨大な生き物の怪物的な凄まじさには恐怖せざるを得ない。むろん情け容赦は一切ない。彼の目に留まる人間は、ただの餌なのだ。
はじめに女を食べて味を知ったとの理由で、その後執拗に女だけを狙う徹底ぶりにも戦く。一家全員が立ち去った後の無人の家屋では、女性の衣類や所持品ばかりを荒らしていたという。
壮絶な恐怖の渦中に身を置く村民たちと共に闇に息を潜め、すぐさま遠くへ逃げ出したい切実な本心に同調し、叶わぬなら必死に効果的な隠れ場を頭の中に浮かべる思い。どこだ。どこなら安全なのだ。天井に張りつけばやり過ごせるのか。
羆は強靭な体躯と怪力だけでなく、賢さも持ち合わせている。足取りを誤魔化す「戻り足」という追手を騙す術には、想像したら震えがきた。雪道のある地点で歩みを止め、そのまま自分が付けた足跡をぴったり踏んで引き返し、途中で木の茂みなどに身を隠す。そして、足跡を追ってその場を通り過ぎる銃を持った人間を背後から襲うのだ。
そんな羆と最終的に対峙して倒すのは、一人の老練な熊撃ちの男だった。そこに至る経緯を辿れば、確かな銃器と豊富な経験に加え、冷静な心身が恐怖心を凌駕してこそはじめて真の武器と化すように強く感じられる。
筆致には大袈裟な演出も見られず、北海道の冬の描写と共に物語は最後まである種淡々と進んでゆく。熊撃ちの名人銀四郎も最終局面になってようやく現れるのだが、翳りを伴う人物像には魅力があり、決して紋切り型の正義感溢れるヒーローとして描かれているわけではないあたりも、個人的には好みだった。
シロクマを筆頭に、熊はとても可愛らしいイラストやキャラクターとして起用される場合も多い。実際に動物園ではチャーミングな様子の彼らに会うこともできる。
熊=害と位置付けるのはもちろん違うだろう。本来彼らが普通に生きる場に人間が踏み込んで、自然を変えたという見方もできるだろう。けれど、そのような感慨を挟む余地などまったくない阿鼻叫喚の地獄絵図がある日突然目の前で展開され、周囲の人間が食い荒らされ、無残などと軽々しく表現できない姿形にされてしまったら。そして自分も同じく生きながら熊の餌となる危機に、絶えず晒される事態に陥ったら。逃げることが許されないなら、正気を保ってはいられないだろう。そしてその後、相手をいかにして倒すか以外に頭を占める考えなど湧かないのは明白だ。
姿を見れば、未知の生物ではなく、「あれはクマです」と皆が分かる。だから、取り敢えず口から変な粘液を噴いたり、肩がぱかっと開いて何らかのミサイルを発射したりはしないことも分かる。だが、ではほかに何を知っているだろう。例えば、「火を恐れる」「死んだふりが有効」など巷で信じられていた説はことごとく打ち破られる。羆は火を絶やさない屋内にも平然と乗り込み、遺体も捕食する。この流れは心底愕然とする場面だ。もはや未知の生物と相対する状態と同じか、あるいはそれ以上の絶望をもたらすのではないか。
そんな風に言いはじめたら、我々個々の人間こそ未知の生物以上の未知の生物に晴れて輝くことになりそうだが、とにかく、「敵を倒すには敵を知れ」という表現が真理だと分かる内容であったとは思う。
妙な結びになったが、これは対熊・対敵だけに限らない。「知る」という行為がどれだけ重要であるか、改めて色々と考えさせられる昨今なのだった。
ちなみに、これまで熊に関して特に深く考える機会はなかった。北海道で暮らすようになった今だからこそ、手が出た小説なのかも知れない。
『羆嵐』 吉村昭著/新潮文庫
*これ以前~2000年は割愛させていただきます
特定商取引に基づく表記 | お買い物のしかた | サイトマップ
Copyright (C) 2000- Ryoufuukoubou. All rights reserved.